最近、Yくんとともに夕食作りをやっている。
だんだん息があってきて、わたしとしてはびつくりするぐらい、ペラペラ
しゃべったあと、私はこんなことを言った。
「Yだから気兼ねなく伝えられるんだよね。『そんなこと言うんだったら、自分でやればいいでしょう』なんて言われる心配がないんだよ。」
私は言った後で、(はっ❗️)と、気がついたことがある。
私の中に、他人に対する差別、区別があるということだ。
この人なら⭕️だけど、あの人は❌と判断しているということだ。
無意識に根の張った差別意識が、ポンと表面に出てきた。
そんな私に気づけてよかった。
もう一つ気づきがあった。
昨日の朝の学びからの続きでもあるが、
私のやっていることは、親がやってきたことである。
親の後ろ姿を見て、そのままのことをやっている。
母と私はそっくりだな。ものの考え方、行動、すべて。
そして、今日のあさの学びでは、父にも私は似ているとは思っていたが、どんな風に似ているのかはスルーしていたことに気づいたのだ。
(Mさんとお父さんの関係が話に出ていたお陰である)
私はよく育った家庭のことを
「どこからパンチが飛んでくるがわからない家庭」と言っていたが、パンチを飛ばす(怒りを向けられる)人は父だった。
今ごろハッキリと気づいたことにびっくりする。
怒りの形相とか本当に怖かった。多くの場合、一方的(に思えた)、理由よりも
威圧(怖さ)で屈服させられていた。納得ではない。屈服だ。
大嫌いだった。そういうところが。
忌み嫌っていた。
その大嫌いだったこと、忌み嫌っていたことを、私は他人にやっている。
私は怒りの人だと思っていたけれど、いま一つ自分自身を理解しきれないところがあったが、ここだったんだ。
父とそっくりのことを他人にやっているってことを、認めたくなかったんだ。
よく、気がついた。
いいぞ、トシミ。
父との関係をよく見ていこう。
西海岸の夕陽
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